
写真雑誌の編集者である私は、記事の申し込みや掲載依頼の写真を断るのに多くの時間を費やしている。また、作品の良し悪しについての判断にも同様に多くの時間を費やしている。そして長年編集をやってきてもなお、いまだに何が良い作品を生ませるのか模索中なのだ。
上述したことに関しての良い例のひとつは、使い尽くされたテーマを扱った場合である。というのは、使い古されたものを、とにかく新しい新鮮なものに変えてしまう人がいるからだ。
「一体どのようにしてこの写真家はこの古いテーマに息を吹きかけたのか?」と私は自問した。これは最近私が見た郷津雅夫氏の写真集「IN NEW YORK(Feb.1971-Nov.1980)」の印象である。この写真集はすべてがニューヨークに住む人々が窓から外を見ている図であり、その主題はどこから見てもこれ以上にないほど正真正銘の「Chiche Status」(使い尽くされたテーマ)であった。
ニューヨークに住んでいない人にとっても、ごった返して狭苦しい安アパートが有名な、またはそれに準ずる写真家たちの好んで使ったテーマであったのは周知の事実である。
例えばルイス・ヘインズは20世紀前後のロウワー・イースト・サイド地区を撮った。またヘレン・ラビットの最新作「ニューヨークの貧民街」がそれである。またこの2人のほかにもアマ・プロを問わず、数え切れない写真家が底辺に生きるニューヨーカーの窓を撮り続けてきたのである。
ニューヨークの窓も、郷津雅夫という異なった文化で育った目で見た場合、新鮮な印象をもたらすのかとも思えたが、それだけでなくもっと他の重要な事実が彼の作品にはあることに気がついた。「IN NEW YORK(Feb.1971-Nov.1980)」を気をつけて見れば判ることだが、知性と才能を持った写真家なら、ありふれて使い古された題材をも個人独自のユニークでまったく目新しいものにつくりあげていくことができる、ということの良い例だったのだ。
郷津氏の76枚の白黒写真(この本には言葉の説明がない)はひとつひとつが窓とそこに住む人々で構成されている。そこには窓のまわりの建物の一部がのぞいているだけで、多い時には6〜7人もが小さな窓に所狭しとおしよせているかと思うと、たった1人だけのものもある。壊れそうなガードレールに顔を押しつけている子供たち。汚い窓枠から幽霊の如く現れ、今にも消えそうな老いた顔。窓の向こうから子供を抱えながら空を見上げる母親。描写の小道具は薄っぺらく汚れたカーテン、はがれたペンキ、こぼれおちたレンガの壁。そのすべてが貧しさを物語る。
力強さの回転
「IN NEW YORK(Feb.1971-Nov.1980)」では一作一作が同じイメージで構成されていると同時に一作一作が異なっており、ひとつひとつが特定の瞬間、特定の人々の表情を、深い思いやりをこめてとらえている。その中で、個々のイメージは意味深い一瞬を正確にとらえ、それぞれが個々に組み立てられていると同時に全体でもあり、シリーズの一片でもあり意味深いステートメントの断片の役割を果たしている。
特別な状況ではなく、どこにでもある現象をとらえた写真ではあるが、個々の写真が本質的には同じテーマを追いかけているということは、ある意味でドキュメンタリー性があるといえるのだろう。
またこの写真の順序は、氏によって時の経過というものを物語らせる。例えば、あるページにはもの暗い窓の中から降る雪を見上げる東洋系の老婆が、別のページにはけだるい夏の日、開ききった窓(老婆のいた窓と同じ窓)から乗り出す下着一枚の男がいる。
このシリーズが窓を通して見る者を広げ、深めていくのにしたがって、窓は氏の手の中で力強さの回転を示していくのである。
写真家達(或いは画家達)は構図として、または象徴的な道具としての窓に魅せられてきた。それは出来合いの額であり、誰もがその中にドラマを創ったり、フレームを置くことにより他と隔離させたり単純におもしろい構図を楽しむことができるのである。
郷津氏は窓枠を使用してすべての効果を駆使するのである。窓は頭と体で満ち溢れていたかと思うと、ぽつねんとたったひとつの顔が一枚のガラスの窓から現れ、また下げられた日よけで切られた頭、暗い内部を背にした動かない輪郭;長細い窓はたくさんの小さな枠やカーテン、日よけ、壊れたガラスのパッチやガードレールで埋められている。
そして最終的に窓を撮り続けるという意味は消え、人間というものがテーマとして残される。氏は、自ら撮った写真に登場する人々の状態について何か語ろうとしているのである。彼らは貧しく、広範囲の少数民族のミックスで、おしなべて幸せには映らない。
われわれは氏が演じる窓を使っての構図のゲームに目を奪われるが、最終的には氏の意図する主題に引き寄せられる。「彼らの顔をごらんなさい」と氏は言うかもしれない。「誰も笑っていないじゃありませんか」子供たちだけは何かを期待し、好奇心で外を見ているが、大人たちの顔には大抵、恐怖や絶望、不安と諦めが読み取れるのである。
構成の論理(フォーマットの論理)
郷津氏はわれわれViewerの印象を、氏の本の表し方(提議)によって一層深めていく。氏の自費出版のこの作品集は横7と3/4インチ×縦11と5/8インチというサイズで、大抵の写真集に比べて細長いものである。その大きさ(形)は、写真がほぼフルサイズに再現されることを可能にしている。この本の大きさ(フォーマット)の選択の素晴らしさは、もうひとつ視覚的な論理、つまり窓そのものの形が反映しているということである。というのはたいてい窓は、細く長い形をしているからだ。
この迫真性をさらに伸ばし、氏は見開きで向かい合うページの写真が、あたかも頭突きし、血を出し合うかのごとく、その二つのページの間にはなんら余分の空間をも残さないようにした。そして最終的にこの本では、見開きで並ぶ2つの写真の像の大きさが同じになるように、即ちできる限り自然に見えるように心がけられている。
このように作品集をバラバラに解体していくことによって、われわれはその裏にインテリジェンスが隠されていることを発見できるし、またこの作品の成功をも洞察することができる。われわれは郷津氏がどのように数々の選択をし、極限の印象に高め、完成した作品をうち出したかを見ることができる。
視覚的に完成し、観る人を魅了させると同時に、力強い、社会的なステートメント(貧しい少数民族がいつの時代もそうであるように)という機能をも、氏の作品は果たしているのだ。
郷津氏の作品の主題が記録しているものは、これらの人々のことのみではなく、人類(人間)全体を指しているとも読めるのである。
なぜなら各々の窓に名もなく、一人ぼっちでまるで捕われて牢獄にでもいるかのごとく外を凝視するのは、ちょうどわたしたち自身がそれぞれの生活においてしばしば孤立しているのにも似ているからだ。
この作品は確かに楽しい生活の光景ではないかもしれない。しかし力強いものであることは明白である。
by Julia Scully
